【ご相談内容】
死んだ親の遺産問題について、自分を含めた子どもたちで話し合っているのですが、私達家族が、病院・スーパーへの付き添い、風呂・食事など日常生活全般の面倒を見ていたんですが、他の兄弟達は、“ いろいろと親の面倒を見てくれて感謝している。でも、そんなの家族なんだから当然でしょう!”という感覚なんです。私たち家族は、みんなから感謝されるべきであって、私は多く遺産を相続すべきだと思いますが、どうなのでしょうか?
Q “ 親の面倒を見てきたので、その分だけ、多く財産を相続したい ” というご相談ですね?
A “ 親の世話をするために多くのお金と時間をつかったし、精神的にも疲れた ”という場合、やはり、その分だけ、ねぎらいの意味でも多めに貰いたいと思いますよね。この点について、法律の世界には、亡くなった人に貢献したという意味で「寄与分」というがあります。寄与した分だけ財産を多くもらえる、ということです。
Q 今回のご相談の場合だと、その「寄与分」というのが認められるのですね?
A そうとは限らない。勘違いされるケースが多いので十分に理解してください。「寄与分」というのは、相続問題との絡みで出てくる言葉です。では、相続とは何か?というと、これは、亡くなった人の財産を分けること。つまり、相続財産に対して寄与した・貢献したという論理的関係でなければならないのです。亡くなった人に対して寄与した・貢献したという関係ではダメです。
Q ん?どういうことでしょうか?
A 親の財産と無関係のところで、「頑張った!貢献した!寄与だ!」と言っても意味が無いのです。言い換えると、その人の貢献行為によって、親の財産がどれだけ増えたか、或いはどれだけの出費を免れたか、という観点で考えるべき事柄なのです。
つまり、“ 僕(私)は親の面倒を一生懸命見てきた、四六時中見てきた ” という気持ちや想いの問題を取上げる場面ではないのです。親の面倒を見ることによってどれだけ親の財産が増え或いは出費を抑えられたかという、あくまで親の財産の増減を問題にしなければなりません。
Q そうすると寄与分が認められないこともある??
A そう。単純に「親の面倒は苦労したよ!」と主張したところで、それによって親の財産がどれだけ増えたか或いは減少を免れたかは、未だ不明です。となると、その段階では、法律的には寄与行為とは評価されないことになります。言い換えれば、貢献行為によって財産が増幅したという客観的なデータが必要になるんですね。わかりやすい例ですと、親の面倒のために払った費用の領収証など。それがあれば、その分だけ、親は出費を免れたことを意味しますから、「寄与分」として評価される可能性があります。
ただし、あくまで評価される可能性がある、というレベルです。領収証があるからと言って、何でもかんでも寄与になるわけではなく、評価されないケースの方が多いかもしれません。領収証のすべてが「寄与分」として評価されるということになれば、対立する相続人間で、領収証争奪合戦が始まってしまうでしょう。
面倒を見てくれる子どもたちに素直に感謝する親の気持ちとは裏腹に、子どもたちが、親の生前からそのような戦いを繰り広げるような事態が好ましいわけがありませんね。親のために出したはずのお金を、後になって、その亡くなった親に対して「やっぱり返してくれ!」と言っているようなものです。
文責:弁護士 和田拓郎